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セレクトショップの店長からデザイナーへ 「メゾン エウレカ」の中津由利加

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ウィメンズブランド「メゾン エウレカ(MAISON EUREKA)」の中津由利加は異色のデザイナーだ。セレクトショップの店長やバイヤー、シューズデザイナーを経て、ドイツを拠点に遠隔でメード・イン・ジャパンのウエアやシューズを1人で手掛けている。
ブランドは2018-19年秋冬で8シーズンの4年目だが、卸先は伊勢丹新宿本店や阪急うめだ本店をはじめ、ジャーナルスタンダード、ロク(6)、シップスなどの国内の有力店が名を連ねる。ブランドの魅力は、レトロかつ斬新な色使い、肩の力が抜けた程よいデザイン性、そしてクスっと笑えるウィットの利いた仕掛けにある。
18-19年秋冬の展示会のため帰国した中津デザイナーにデザイナーとなったきっかけや、遠く離れた地で日本を拠点にモノ作りをするコツなどを聞いた。
ファッションのキャリアはどのようにスタートした?
高校卒業とともに福岡から上京し、セレクトショップの「ナンバー44(n°44)」に入社したのがきっかけです。入ってすぐに販売とバイヤーアシスタントに就き、19歳の頃からパリやミラノへ買い付けに同行しました。その後、イギリスに1年半語学留学をして、帰国後は「ナンバー44」に戻り、店舗の店長とバイヤーを経験しました。
ナンバー44とはどのような店か?
もう無くなってしまったのですが、東京と大阪、福岡に店舗を構えていて当時のコンセプトショップの先駆けのような店でした。デザイナーズブランドの商品の他、ミリタリーウエアや「エルメス(HERMES)」などのビンテージも扱っていて、CDや自転車、テントなど、なんでも置いてあるようなお店でした。また、当時まだセレクトショップではオリジナルウエアがそれ程なかった時に、オリジナルを充実させていていたことも注目されていました。高校生の時から憧れの店だったので、すぐ働きたいと思い、卒業後は進学せず入社しました。
若くからバイヤーを経験した後、留学を決めた理由は?
19歳の時、世間知らずの若者にアシスタントバイヤーをやらせてくれたのは、“熱意だけはあるから”と、会社が勉強をさせてくれようとしたんだと思います。でも、パリやミラノについて行ったとき、何もできず悔しい思いをしました。チャンスをもらっているのに、「私は何をしているんだろう」と足手まといになっていると感じ、少しでも早く成長したいと、ロンドンに留学することを決めました。
留学ではどのようなことを学んだ?
語学はもちろん習得できましたが、メンタルの変化が一番大きかったです。留学中に1カ月バックパッカーとして電車でヨーロッパを旅して、さまざまな人と触れ合うことで価値観が変わり、視野が広がりました。フランス、スイス、イタリアの各地を回りましたが、それぞれの国の事情も分かって、自分には知らないことがたくさんありました。印象深かったのはイタリア・フィレンツェでのあるおじいさんとの出会い。ホテルで近所のスーパーの場所を教えてもらい戻ってくると、「何を買ってきたのか?」と聞かれ、買ってきた生ハムとパン、小さなワインを見せたら、「こんなワインは飲んではいけない」と言われました。次の日、フロントに呼び出されて降りていくと、おじいさんがテーブルの下からワインを2本出してきて「イタリアにいるんだから、いいワインを飲みなさい」とサプライズでプレゼントしてくれたんです。人のやさしさに触れて、感動したのを覚えています。また思わぬ出会いもありました。パリに2週間ほど滞在していた時、ホテルで出会った女の子と仲良くなったことをきっかけに、彼女が働いているブランドで急きょバックステージスタッフとして、ファッションショーを手伝うことになったんです。「マラヤンペジョスキー(MARJAN PEJOSKI)」というブランドだったのですが、舞台裏でボタン付けをして、モデルの着替えの手伝いをしました。
戻ってきてから店長を務めながら、バイヤーとしてパリ、ミラノ、ラスベガスに買い付けに行きました。ナンバー44には若い時から目をかけてもらって、多くのことを勉強させてもらいました。社長は美に対して厳しい方でした。その美しいもの、カッコイイものなどの基準は、そこで学んだことが今もベースになっていると思います。何に対しても「これは何だろう?」と疑問を持つようにと言われ、服の生地は必ず触って、素材の品質を見るようにして覚えていきました。店で取り扱っている商品は、当時の給料では買えないような価格だったのですが、「若いころは借金してもいいから、いいモノを身に着けなさい」と上司に言われて、「ヴェロニク ブランキーノ(VERONIQUE BRANQUINHO)」「ドリス ヴァン ノッテン(DRIES VAN NOTEN)」「メゾン マルタン マルジェラ(MAISON MARTIN MARGIELA)」など、月10万円程使っていいモノを身に着けました。
なぜナンバー44を退職したのか?
それから、「H&M」などのファストファッションが上陸して大流行した時、店があった原宿のとんちゃん通りに女性のお客さまの人通りが少なくなり、客層も変わっていきました。バイヤーとして、“消化”を意識した仕入れをしなければならず、 “安くて売れることを重視する”流れの中で、自分が心の底からおススメできないものを買い付けることは腑に落ちない部分がありました。
その後、シューズブランドの「デュルブイ(DURBUY)」のデザイナーに転身した。
モンドコーポレーションから、ブランドの立ち上げに合わせて誘っていただきました。デザインの仕事はしたことがなかったので、とても悩んだのですが、周りに背中を押してもらい、独学で進めていきました。既に「デュルブイ」のブランド名とロゴ、ウッドソールというコンセプトだけ決められていて、商品企画、デザイン、生産、営業、出荷、経理に至るまで全て一人でこなしました。11年には留学先だったロンドンでもう一度暮らしたいと、移住を決意して渡英したのですが、「デュルブイ」はデザイナーとして継続し、別のブランドのウエアのデザインの仕事も受けるようになりました。その時から、遠隔でのデザインをはじめて、どう伝えればどのような仕上がりで商品が出てくるのか、という感覚を得られるようになってきました。14年までロンドンにいて仕事を続けましたが、イギリスの移民政策でビザの取得が難しくなったのですが、自分の中で日本に帰る選択肢はなく、アーティストに愛される街であるドイツのベルリンへ移りました。それを機にこれまで受けていた仕事を終了しました。
そして、ドイツで「メゾン エウレカ」を立ち上げた。
ベルリンに拠点を移して一から好きなことを始めようと思いました。最初は資金もなかったので、少ない型数でスエットのリメイク2型、バッグ3型、シューズ4型で始めました。ブランド名のエウレカは“ひらめき”という意味なのですが、海外で私の名前が“ユウリカ”と発音されることがあるので、そこにもかけています。自分でブランドをやるなら、パーソナルなことをやりたいと思っていたので、メゾン(家)をくっつけて、“ユリカの家”という想いを込めて「メゾン エウレカ」にしました。服や靴以外にもプロダクトを増やしていきたいなと、構想していました。今も一人でブランドをやっていますが、セールスは日本でオントーキョーショールームに任せていて、流通の部分ではいろいろ助けてもらっています。
毎シーズンどのくらいの商品を作っているのか?
最初から番号を付けていて、8シーズンで全148品番なので、少ないと思います。毎シーズン約16品ずつ作っているイメージです。前シーズンからリピートしている商品もあるので、若い番号ほど古いので定番と新作が分かりやすいです。
モノ作りはどのようにしているのか?
本当に“ひらめき”で、絵型から描きます。これが欲しいと思ったものに素材を当てはめていきます。でも、コーディネートありきで、単品で考えることは少ないです。店でVMDをしていた経験から、ラックに並んだ布帛とニット、カットソーのバランスは頭の中で想像します。これを作るなら、これはいらない、この色があれば、この色はいらない、など自然に頭の中で組み立ていきます。無駄なものを作れないので、必要なものだけを作るという考えもあります。以前から遠隔でブランドのモノ作りをしていたので、慣れていることもありますが、今一緒に仕事をしている7社ほどの工場や業者の方々にはスカイプをダウンロードしてもらって、テレビ通話でミーティングをしてモノ作りを進めています。
着想源は昔から変わらず好きな服
セレクトショップの店長からデザイナーへ 「メゾン エウレカ」の中津由利加(643102) | WWD JAPAN
定番人気の古着デニムをリメイクした “ビンテージ リワーク バギーパンツ”。インスタグラムでも多く着用画がアップされている PHOTO BY YOSHIAKI HIKINUMA
着想源はどのように得る?
ベースになっているのは、自分のクローゼットかもしれません。これまで数々の系統のスタイルに挑戦した中で、変わらずにずっと好きなアイテムがあります。でも、その服を今着たらちょっと違和感があって、今どう着たいかと考えてデザインします。そういった自分の中のスタイルアーカイブがモノ作りの根幹になっています。私はスカートをはかないので、スカートは作らないです(笑)。例えば、古着デニムをリメイクした “ビンテージ リワーク バギーパンツ”は、学生の頃スケーターの友達が多く、だぼだぼのデニムの腰に靴ひもを巻いたスタイルが流行っていたんですが、その懐かしい記憶からデザインしたもの。基本はださカワイイものや昭和っぽいレトロな色使いとか、私の偏った好みが反映されています(笑)。
商品にはバッグのオマケが付くなど、付属品にもこだわりがある。
買った人の喜びはとても大事。最初のシーズンから付けているタイベック素材のコンビニ袋風のバッグは、スーパーマーケットや百貨店などを意味する“KAUFHAUS(カウハウス)”というロゴを入れています。デビューシーズンから、ブランドの店を想定してデザインをしてきているかもしれません。今後の目標は?
これ以上商業的になりたくないですね。無駄に「これが売れるんだろうな」と思いながらモノ作りはしたくないので、この規模を保ちながらブランドを発展させていきたいですね。将来的に店を開きたいと考えていますが、普通の店にはしたくないと思っています。ブランドの商品だけじゃおもしろくないので、パーソナルな“ユリカの家”みたいなイメージで、来た人がそこでしか味わえない特別感がある場所にしたいです。

オタクの世界からストリートシーンへ 異色の19歳漫画家JUN INAGAWA

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アメリカひいてはストリートシーンにおいて、「ドラゴンボール」や「NARUTO-ナルト-」など日本のアニメ・漫画が大人気なのは言うまでもないが、いま日本人漫画家JUN INAGAWAが世界中のストリートシーンを騒がせているのはご存知だろうか。

5月23日までディーゼル アート ギャラリーで開催中の個展「魔法少女DESTROYERS(萌)」に展示されている作品

現在、渋谷のディーゼル アート ギャラリー(DIESEL ART GALLERY)で個展を開催中の彼は、いわゆる“アキバ系”と言われる美少女をモチーフとした萌え系のイラストを描く19歳の“オタク漫画家”。しかし、彼が他のオタク漫画家と大きく異なるのは、その経歴だ。彼がまだ高校生の頃、インスタグラムに投稿した1枚のイラストをきっかけに、エイサップ・バリ(A$AP Bari)の「ヴィーロン(VLONE)」や人気ラッパーのスモークパープ(Smokepurpp)など、ストリートシーンにおけるビッグネームと、次々コラボ。シーンでも類を見ない異色の経歴を持つ人物となった。

一見、萌え系とストリートは相反するカルチャーだが、いわく「共通する感覚があった」と話す。ストリートシーンにおけるサクセスストーリーから、思い描く未来像とはーー。

もともと日本で生まれ育った?

日本で生まれて、小学校を卒業してすぐに父親の仕事の関係でアメリカのサンディエゴに移住しました。父親は日産の車のデザイナー。絵を描くようになったのは、父親の影響です。

実際に絵を描くようになったのはいつから?

5〜6歳だと思います。父親が「AKIRA」や「攻殻機動隊」の世代だからちょくちょく見せてくれることはあったんですけど、幼い頃の僕には絵のタッチが独特すぎて苦手で……「クレヨンしんちゃん」や「ドラえもん」、朝7〜9時のゴールデンタイムにやっていたアニメを模写してましたね。美少女の絵に傾倒したのは小学6年生くらいからで、「プリキュア」がきっかけです。

男の子で「プリキュア」を観るのは珍しいと思います。

小さい頃からアニメを見ることが当たり前の生活だったので、2次元にも抵抗はなく、「かわいければいい」みたいな感じでした。でも小学生って観るアニメが「プリキュア」か「ドラゴンボール」にわかれると思うんですけど、やっぱり男子で「プリキュア」を観てるのがバレると気持ち悪いって言われるから、「ドラゴンボール」が好きなふりをして誰にも言わないで、影でこそこそ「プリキュア」を見てました(笑)。「プリキュア」は僕の美少女好きの原点です。

将来像として具体的に漫画家を意識したのはいつ頃?

小学3年生から思っていて、5〜6年生のときには周りに「漫画家になる!」って言ってました。とにかく絵を描くことが好きだったので、クラスの友達に似顔絵を描いて配ったり、友達を題材にした漫画を自由帳に描いたりしてましたね。

絵のタッチに影響を受けたり、尊敬する漫画家はいますか?

あまり「この人!」って方はいないんですけど、描き始めた最初の頃は「アイシールド21」や「ワンパンマン」の村田雄介先生の絵ばかりまねて描いてました。だから僕の絵ってかなり村田先生に似てるんです。村田先生のアメコミ風な影のつけ方と、喜怒哀楽の表情の描き方がすごい好きですね。

村田先生は他の漫画家よりコントラストが強い印象です。

白黒はっきりしてますよね。たぶんですけど、アメコミを参考にしているんだと思います。海外の漫画の多くは影の描き方をはじめ、顔も骨格も筋肉のつき方もリアルに寄せた描写なんです。

それこそアメリカに住んでいたら、マーベル作品などのアメコミにはハマらなかった?

映画は観るんですけど、漫画には全く興味がないですね。正義が悪を倒すスーパーヒーロー系って人間味がないからあまり好きじゃなくて、逆にアンチヒーローとかブラックヒーローとか人間味のある敵の話が好き。性格が悪い「デッドプール」には親近感が湧きます(笑)。

絵は独学?

絵画教室に通ったことはあるんですけど漫画とは全然違うので、人物からデッサンまでほぼ独学ですね。好きな先生の絵を模写して自分の絵に昇華させるみたいな。絵は村田先生っぽくて、趣味が萌え系だから僕のオリジナルのスタイルが生まれたんだと思います。

人物画のイメージが強いですが、風景画も描くんですか?

1作品だけですが、今回の個展にも風景画があります。ただビルのようにまっすぐなものを描くのが苦手。ビルなら崩壊したものを描く方が好きですね。将来漫画家になったら、背景はアシスタントの人にお願いしたいです(笑)。

具体的に“オタク”になったのはいつ頃?

14〜15歳のときですね。「けいおん!」や「らき☆すた」のように女の子がわーきゃーしているのがすごい好きで、そこから「ラブライブ!」にハマり重症化しました。「ラブライブ!」の映画は鑑賞券のグッズほしさに40回は観ましたね。

やはり秋葉原にはよく行くんですか?

秋葉原はただ散歩するだけでも飽きないです。それに、いる人は“分類”が同じだから話さなくてもホーム感があるんですよ。アニメのTシャツを着てても、バッジをたくさんつけてても偏見の目で見られない。外に行く理由が秋葉原、みたいな引きこもりが引きこめる外の空間ってイメージで、新宿や渋谷から近い同じ日本なのにオタクが占拠する違う国って感じ。

ファッション界の新星、MSGMのアイテムが全国で買える

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2010年にデビューして以来、瞬く間に世界中のファッショニスタを虜にしてしまったイタリアブランド、MSGM(エムエスジーエム)。デザイナーのマッシモ・ジョルジェッティが手掛ける複雑なテキスタイルは、どれもこれもキャッチィでインパクトに満ちたものばかり。DJとしても活躍する彼は、現代アートやインディーミュージックなどがインスパイアの源なんだって。

そんなファッションキッズのためのブランドが、8月27日~9月3日までポップアップショップを銀座三越3階のGスペースにてスタート(4日以降は同じフロア内のル プレイスに場所を移しそのまま継続)。そして大阪でも、阪急うめだ本店3階の「D.エディット」にて8月28日〜9月3日にポップアップショップを開催。カラー、シルエット、テキスタイル……万華鏡のように表情を変えるMSGMの魅力を肌で感じられるはずだから、秋冬のスターターアイテムに出逢いに行って!